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永仙院 (古河市) : ミニ英和和英辞書
永仙院 (古河市)[ようぜんいん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せんと]
 (n) cent
: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
古河 : [ふるかわ]
 (n) old river
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [し]
  1. (n-suf) city 

永仙院 (古河市) : ウィキペディア日本語版
永仙院 (古河市)[ようぜんいん]

永仙院(ようぜんいん)は、茨城県古河市桜町(長谷村)にあった臨済宗の寺院。鎌倉円覚寺の末寺。明治初期に廃寺となり、現在は跡地が文化財・史跡として保存されている。〔『古河市史 通史編』 194-195頁(永仙院)〕
山号を金蔵山、院号を永仙院という〔『古河市史 資料 別巻』 298-299頁(古河志・永僊院)〕。表記は「永僊院」が正字だが、略字の「永仙院」が常用されている。古河公方ゆかりの寺院。
==歴史==
かつて、初代古河公方足利成氏開基、春貞周乾開山により、成氏法号の「乾享院」と称した鎌倉円覚寺系列の寺院が古河にあった(『円覚寺史』〔玉村竹二・井上禅定『円覚寺史』春秋社、1964年 (第五章第四節「黄梅院末派の発展」)〕)。これがのちに、第四代足利晴氏の菩提寺として晴氏法号の「永仙院」に改称、開山も季竜周興に改められたと考えられている。〔山口美男 「古河公方「三ヵ院」変遷の考察」 『古河市史研究』 第2号、1977年、古河市、54-68頁〕 〔山口美男 「補足 古河公方「三ヵ院」の前身について」 『古河市史研究』 第5号、1980年、古河市、44-49頁〕 〔
歴代の住持は政治分野で活躍したものが多く、戦国時代の季竜周興は古河公方晴氏・義氏の側近となり、江戸時代初期にも三伯玄伊円覚寺156世、天甫碩円が円覚寺157世となって、ともに鎌倉円覚寺の再建に尽力した。〔 〔
江戸時代後期に書かれた『許我志』・『古河志』によれば、成氏から義氏までの歴代古河公方の位牌が置かれ、公方家が寄付した足利尊氏の偃月刀(ナギナタ)もあったが、貧窮のため売り払われたという。『古河志』では、徳源院松月院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたと紹介されている。〔 〔『古河市史 資料 別巻』 525頁(許我誌・永僊院)〕 江戸時代後期は無住持の状態が続き、明治4年には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併された〔市内長谷町一向寺所蔵の『山王寺什具取調帳』より〕 〔。
現在は跡地が市の文化財(史跡)に指定され、永仙院歴代住持の墓や、古河公方家の侍医で「医聖」と呼ばれた田代三喜の供養碑などがある〔。ここにはかつて、三喜の墓の目印とされた松が植えてあったとされる〔『古河市史 通史編』 201頁(田代三喜)〕。他にも、赤穂浪士の一人吉田忠左衛門兼亮の長女「さん」とその夫である本多家家臣の伊藤治興の墓が残されている〔古河市公式ホームページ 公報「古河」No.74(2011年11月) 文化の扉 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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